2008年05月14日(Wed)
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未来図書館の会員の皆様には、専門性を活かしてご活躍されていらっしゃる方が多くいらっしゃいます。「もりおか学生提言」活動でも、ご助言、ご指導くださったマーサーヒューマンリソースコンサルティング株式会社、プリンシパルの安西活氏のコラムがとても励みとなり、多くの方に読んでいただきたく全文を掲載させていただきます。 ●日々の仕事を通じて、お客様企業の社員のコンピタンシーモデル(求められる行動特性)の構築やスキルの棚卸しのお手伝いをさせていただくことが多い。 かつての生活支援的な給与項目を別とすれば、企業が行う個人への支援は主に職務遂行に必要なスキルや能力の開発に焦点があてられてきたといっても過言ではない。 そこには、企業がかかわるべき個人はすなわち職業人であるとの、暗黙の前提がある。企業は、個人の自己実現を、職業人として高い成果を達成し、周囲から認め賞賛され、会社のなかでの出世競争に勝ち抜くこととして捉えていたのではないだろうか。 ワークライフバランスという概念も、その本質的な意義は別議論として、私生活と職業人生活を対立概念で捉え、そのバランスの帰着を最終的には個人の判断に帰着させているとは言えないだろうか?いくつかの企業を引き合いにし、企業業績とワークライフバランスの相関を図る試みは見られるものの、ワークライフバランスの充実度合いが生産性に寄与しているのか、それとも企業業績がよいからワークライフバランスの取組みが可能になるのか、というように、鶏と卵の議論の域をでないケースが多いように見受けられる。 企業が生産性を追及することは当たり前のことであり、それは決して企業の利益のためだけではなく、社会における存在理由を実現するためであることも理解できる。 仮に企業で働く個人が、組織目標を実現するための機能であるとの見方にたてば、個人=職業人という定義は正しいであろう。しかし、人は決して機能ではなく、職業人という「狭義の個人」を超える存在である。 その超える部分を、「職業人」の領域が過度に侵さない限りにおいては、初めて職業人と個人が両立しえた。その状況においては、企業は職業人とだけ向かえばよかったのかもしれない。ところが、昨今「職業人」の領域が「個人の領域」を侵食し、企業が職業人と向かい合うだけは済まない状況がでてきた。その状況は、次の2つの事実によって引き起こされたと考える。 つまり、 1. ITの進化に伴い、個人の生活全体と職業人生活の境目が曖昧になったこと 2. 個人に自立性と高度の生産性を求めることは、ひいては個人の人生観にまで影響を及ぼすのが不可避であること という、2つの事実である。 職業人と個人の共存に関する問題は、1900年頃にフレデリック・ウィンスロー・テイラーの科学的管理運動がもたらした影響にさかのぼることができる。彼が提唱した方法論は、本人の意図は異なり、工場で単純作業に従事する職工の非人間化、つまり職工が労働力そのものと化す状態をもたらしたとして非難を受けた。その後マネジメントの世界においては、人間的側面に目が向けられ人間尊重が叫ばれた。 今日において、経営者が求める知識労働者なるものが、「労働力」そのものと化してしまう可能性を否定することはできない。知識という修飾語がついても、「労働力」であることには変わらないのである。しかも前述の通り、仕事と私生活の境目は時間、個人の価値観、人生観に至るまで、限りなく曖昧になってきているのである。 こうした状況で企業は何をすればよいのだろうか。絶対解があるわけではないが、社員ひとりひとりの、人間としての「成長のタイミング」と「こうありたい」姿を視座として、今の個人の行動のあり方を共有し、日々のマネジメントに移す工夫が出来ないであろうか?個人に、「企業から求められる姿」ではなく「個人がこうありたい姿」を描いてもらい、働く過程においては、「企業の目標の共有」ではなく「共感」を生み出ことを重視し、個人に「成果に対するコミットメント」だけを求めるのではなく、「顧客に価値を生み出すわくわく感」を感じてもらうことを企図するのである。職業人と個人の境界が曖昧になったことは、企業が社員の「人間としての成長」への関与を強めることをも意味し、それは企業の社会的責任の1つと言えないだろうか。 また、少し斜めの見方をすれば、個人の人生観を共有することが、当人の職業人としての成果創出の可能性を探るうえで有用な情報ともなりえることを踏まえると、上述のことが決して単純かつ一方的な個人迎合志向ではないとも言えるのである。 余談になるが、私が通うスポーツクラブのダンスレッスンのインストラクターは、参加者が前向きにレッスンに参加できるよう目配り、声がけを怠らない。またそれが決してマニュアル的には映らない。スポーツクラブのようなところは、参加者の参加目的もレベルも様々で、現実的にプログラム内容を全員に合わせることは不可能である。しかし、インターフェースの工夫次第では、受け手にあたかも内容をカスタマイズしているように感じさせることも可能なのである。 こうした試みの根底にあるのは、個人にとっての価値を愚直に実現していこうとする思想である。この思想を選択するか否かは、その企業の個人を活かすことについての基本思想によるのかもしれない。 執筆者: 安西 活 トラックバック(0) |
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